小倉に焙茶文化を創る

辻利茶舗 京町本店
私は「焙じ茶売りのオイちゃん」

焙じ茶を丁寧に炒る。
小倉に焙じ茶文化を創る。

日本一 美味い焙じ茶を炒り続けながら
終活出来たら。幸せでしょうね〜

➡︎この後の文章は、お時間に余裕のある方は お読み下さいませ。グダグダ長いです(笑)

万延元年、京都の宇治で創業した辻利茶舗。九州支店を構えるために、私 辻利之の祖父母が小倉京町にやってきたのは1923(大正12)年のこと。九州支店開設後数年で京都に戻るはずが、小倉京町界隈の風情と人情、商環境に惚れ込み、小倉に留まることを決めた。当初紫川のたもとにあった店舗は、昭和のはじめに現在の場所に移転。

後に魚町にも店舗ができ、私は1954(昭和29)年に魚町店の二階住居で生まれた。東京の大学を卒業後、京都府宇治市で茶の修行をし25歳で小倉に戻った私は、後に京町店を営んでいた叔父の引退に伴い、それまで叔父が担っていた組合の仕事を引き継いで京町の街の運営に関わるようになった。豆腐売りのリヤカーや金魚掬い屋、椎の実や栗を売る屋台など、様々な人が行き交う京町の通りには、魚町とは異なる「風情」があった。

私は街づくりへの意識は若い頃から強く、30代は北九州青年会議所に所属し活動、企画づくりのノウハウと人的ネットワークを培った。自分の店にお客さんを呼ぶには魅力的な商店街をつくらないといけない。そして街が良くなるためには、自分の店がまず魅力的でなければいけない。その思いで様々な試みを行った。お茶の焙煎機をお店の前に出し、手作業で少しずつ焙煎しているのも、お茶の香りで京町らしさを演出したいという思いがあってのことだ。専門店の多い京町銀天街。それぞれのお店の特徴が前面に出ることが、まちの表現につながると考える。

商店街の活動に精力的に関わる一方、40歳で社長になった。「ペットボトルが黒船のようにやってくる」時代に、今を生きる若者に支持されるお茶屋を目指し、スイーツなどお茶を使った商品の開発をすすめ、お茶で潤いのある生活提案を行った。1994(平成6)年に魚町の店舗に喫茶スペースを開設。翌年には京町にも喫茶を設ける。今では、学生でも気軽に寄れるカフェとして、放課後の高校生から年配の方まで幅広い層が集う場となった。

一方で、「小倉で世界に通用するお茶屋の新業態をつくる」というビジョンを掲げ、商品パッケージなどのデザインを一新、小倉に根ざしながら商品はグローバル・スタンダードを目指した。スタンスはローカル(小倉)ビジョンはグローバル(世界)。とはいえ海外に店を出す力や資金など到底なかった。だが大学時代の同級生とのご縁をきっかけに、台湾への出店が決まる。その後、シンガポール、中国にも現地法人との共同出店という形で海外店舗が始まった。そしてマレーシアやタイ、ロンドンやカナダのトロントやバンクーバ、オーストラリアのメルボルンなど11各国約40店舗。それを実際に形にしていったのは「若いスタッフたち」。力の無い私自身の描いたビジョンに、様々な人の繋がりと若い力が加わり実現した海外出店だった。

それでも時代の流れは早い。海外の店舗とスカイプ会議をしている若いスタッフを見ると、あまりに早足で時代が新たな世代に移ろうとしていることを感じる。自分にはない新たな感性や取り組みを形にするために、あっさり60歳で社長職を退いた。とはいえ、店でのまちでの私の役割は終わらない。江戸時代から交通の要所であり、文化や産業が発展し、多様な人々を受け入れてきたこの街の魅力を、もう一度新しく編集し変え、小倉らしさを創り発信したい。必ずしも大きな花火を打ち上げるのではなく、顔の見える関係と持続的な活動のあり方をベースに、これからも、店にそしてまちに対して自分ができる「小さな」事をやっていこうと思っている。

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