第5回 7月27日(金)、8月13日(金)16:30〜17:00放送
ゲスト:郷土史家 菊池満さん
聞き手(MC):WeLove小倉協議会幹事 斉藤大輔
MC:今回は、北魂のWeLove小倉ページに連載をされている、郷土史家の菊池満さんをお招きしています。郷土史家というとどういう活動を?
菊池:私の場合は、各市民センターだとか、企業向けに講演をしたり、執筆活動を行っています。
MC:前号の北魂の記事見ました!
菊池:ありがとうございます。前号では、小倉北区の貴船橋を取り上げました。これは、今年の7月の豪雨災害がありましたが、昭和28年に起きた水害も耐えたという、その歴史をご紹介しようということで、写真とエピソードを掲載しました。
MC:古い橋なんですね。
菊池:現在の形は、基本的に昭和12年竣工のそのままです。当時は、幅が13間(約23m)あることにちなみ、13間道路と呼ばれていました。将来的に、車の交通量が増えるだろうということを見越されて作ってあるんですね。
MC:橋にも歴史ありですね。
菊池:はい。ただ、江戸時代には常盤橋と豊後橋の2つしかなかったんですよ。
MC:そうなんですか?
菊池:城下町では有事の際、敵兵が攻めて来た時に備え、極力橋はかけていませんでした。その際には、橋を壊して防衛するという。いっぱい橋ができたのは、明治以降になります。
MC:勝山橋も紹介されていましたよね?(北魂6月号)
菊池:木造の勝山橋を明治40年当時は、九州電気軌道、現在の西鉄の路面電車が通っていたこと。そして、さすがにまずいということで、昭和6年に石造りの橋梁になったことなどを紹介させていただきました。
MC:それでも、石造り・・・。若い世代の皆さんには、電車が走っていた街がイメージできないかもしれませんね。
菊池:かつて1番のバス、砂津から黒崎に行くバスは、あれ「電車代替バス」って書いてあったんですよ。
MC:いやー面白いなー。電車というと、JR小倉駅は・・・。
菊池:現在の室町のヤマダ電機のところですね。それが、大体昭和30年くらい、もう60年くらい前になりますね。だから昔は、京町、魚町ももちろん商店街があって今のようににぎやかなんですが、中心といえば室町だったようです。
MC:まさに駅前通りそのものだったんですね。
菊池:戦前の写真を見ると、小倉駅前通りって書いてます。
MC:勝山公園のあたりってどうだったんですか?
菊池:なんと言っても造兵廠(ぞうへいしょう)ですね。
MC:造兵廠、漢字難しいですよね。
菊池:この廠という字は、工場という意味なんですね。ですからレ点を打つと兵器を造る工場で造兵廠。非常に広大な敷地で、大手町、木町一体17万5000坪、ヤフオクオーム4個分の大きさでした。最盛期(昭和18年頃)には、正規の従業員と動員学徒と挺身隊員合わせて約5万人が働いていたそうです。
MC:毎回ゲストに来られる皆さんにお伺いしているんですが、小倉の街の魅力はどんなところだと思われますか?
菊池:歴史的なものでいいますと、やっぱ小倉城ですね。明治維新を迎えたときに267の藩がありましたけどそのうちにお城を持っていたのは約170なんですね。だから、全国に城下町というのは約170しか存在しないんですよ。その中の1つが小倉。大変貴重ですよね。今でも自治体が2400くらいありますからその中で170しかない。小倉城は、誇れるものだと思います。
MC:お城は、街の中心というイメージありますね。
菊池:多くの城下町というのはお城の周辺に武家屋敷というのが必ずあるんですね。ただ、小倉の場合は慶応2年に奇兵隊がやってきまして戦争になりました。その結果、武家屋敷がほとんどないですね。そういう意味では、明治以降開発がしやすかったということがあります。
MC:歴史的にもさかのぼっていくと街の成り立ちがわかる。非常に面白いですね。景観としてももちろんですが、街の歴史も知るとまた違った面白さが見えてきました。今日は、貴重なお話ありがとうございました。
郷土史家 菊池満さんへの講演依頼などは、Facebookで「菊池満」さんのページからアクセス。