茶話その2
「御茶壺道中」と「ずいずいずっころばし」
ずいずいずっころばし胡麻味噌ずい
茶壷に追われて(茶壺道中が近づいたら)
トッ(戸を)ピンシャン、
抜けたら(通過したら)
ドンドコショ(やれやれ、と息をつく)」
(松本清張氏が小説執筆の調査の為、辻利茶舗に足を運んだ。辻利の説明は要領を得なかったが(笑)。この御茶壺道中の 不合理さから生まれた 与一郎の喜劇悲劇を描いたのが、松本清張の短編「蓆」(むしろ)であった。
御茶壺道中とは、徳川将軍家が飲み楽しむお茶を、京都宇治から江戸に運ぶ行列。この御茶壷道中は、徳川将軍が口にするものであるから、たいへん権威があり、参勤交代や御三家の行列であっても、駕籠から降りて、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなりませんでした。
諸国の大名や庶民にとっては、「大迷惑」「厄介者」な行事。お茶壺様々〜と極度な敬意を払い、1000人もの立派な大人が、お茶壺にビクビクしながら、京都から東京(江戸)まで 何と〜!歩いて、4〜5ヶ月も掛けて運びます。綱吉時代の御犬様〜と同じレベルですね。今なら宅急便で一日。
説明(以下ウイキペディアも含め、様々な検索をさせていただき、利用させていただきました。)
織田信長や豊臣秀吉 戦国時代から江戸時代に入っても諸国大名達は、お茶が大好きだった。自分の権威を誇示する為に、茶室を作り、茶に興じ、客を持て成した。茶道をする事は、社会的な地位を保つ事でもあった。
徳川幕府がうまれ、政治の中心が京都から江戸へ移ってからも、徳川家康は宇治のお茶を好み、宇治から江戸へ茶葉を取り寄せ楽しんだ。その後二代将軍秀忠、や三代将軍徳川家光をはじめとする将軍家に、宇治のお茶は愛好され続けた。
江戸幕府、三代将軍家光は、御茶師筆頭であった上林家に命じて、朝廷に献上するお茶と将軍家用の高級茶を、宇治の茶師に作らせ、茶壺に詰めて江戸に献上させていた。これが御茶壺道中のはじまりで、1632年より正式に制度化されたといわれている。
空の茶壺とともに江戸を出て、東海道を京都宇治に向かい、
宇治で碾茶を茶壺に詰めたあと、一旦京都の愛宕山へ預けます。その後、中山道(なかせんどう)を通って、途中、茶壺を山梨県の谷村に置いて夏を過ごさせ、秋になってから江戸へ運んだ。
その道中の様子を風刺的に歌ったと言われているのが、わらべ歌として知られる「ずいずいずっころばし」。
お茶を大切に扱い、人間様以上の待遇をする。庶民は御茶壷道中を顔をあげて見ることすら許されず、通りすぎるのを恐る恐る息を潜めて待っていたようです。(綱吉候の御犬様の様)行列が通る街道は、前もって現在でいう交通規制が敷かれ、農繁期であっても田植えは禁止された。子供の戸口の出入り、たこ揚げ、屋根の置き石、煮炊きの煙も上げることは許されず、葬式の列さえ禁止された。茶坊主などは、その権威を傘に、金銭の授受 袖入れが横行する。沿道に暮らす庶民は、この行列を畏怖の念を持って見、また厄介者として、戸をぴしゃんと閉めて閉じこもった。
その後、年々、御茶壷の数も行列の人数も増えていき、御茶壷道中は、多い時には、千人以上の人たちが百個を超える茶壷を運ぶ、絢爛豪華な行列であったと伝えられる。
この制度は、徳川家光が1633年に制定してから、慶応3年(1867年)まで、実に235年ものあいだ、毎年休むことなく続けられた。